<NTT歴代社長の実績・評価・評判・経歴>
名前 功績・評価・背景など
島田明
(しまだ・あきら)

島田明

【期間】
2022年6月~
現在

事務系



<就任会見>
強いリーダーシップを発揮した前任の澤田純社長が、代表権を残したまま会長となり、その後任として昇格。調整型のリーダーとされる。

■就任時の年齢
64歳

■就任の発表日
2022年5月12日

■就任日
2022年6月

■直前の役職
副社長(兼CFO)

■同時に行われた幹部人事(2022年6月)
・澤田純社長は代表権のある会長に
・篠原弘道会長は相談役に
・鵜浦博夫特別顧問(前々社長)は残留
・NTT東日本の社長には渋谷直樹NTT副社長が就任
・NTT西日本の社長には、英国ロンドンに拠点を置くNTTリミテッドの森林正彰副社長が就任
・NTT東日本の井上福造社長とNTT西日本の小林充佳社長はそれぞれ相談役に

■出身
東京都

■大学
一橋大学商学部(1981年卒業)

■入社年次
1981年(昭和56年)

■社内キャリア
主に人事・総務畑を歩んだ。
NTT東、NTT西、NTTコミュニケーションズなど子会社での経験も豊富。
2007年 NTT経営企画部門担当部長
2011年 NTT東日本の取締役(総務人事部長)
2015年 NTT常務取締役
2018年 副社長

■就任前の業務内容・実績
副社長として事業戦略を担当した。
最高財務責任者(CFO)としてグループ資産20兆円超の圧縮に着手した。
組織変革にも取り組んだ。転勤や単身赴任の原則廃止なども打ち出した。

■人柄・人物
調整力に定評があった。

■趣味
・神社、仏閣巡りをかねたウォーキング
・社会人野球観戦
・孫との将棋

■在任中の主な取り組み・実績
●株式の25分割
2023年6月29日、株式の25分割を実施した。それまでNTT株への投資には最低40万円超必要だった。 それが分割で2万円弱で可能になった。

●ドコモ社長人事で大失敗
ドコモ社長人事で大失敗を犯した。 前田義晃というリクルート出身の人物を選出しただが、 この前田という人物は着任早々、「知的財産」を濫用する暴挙に出た。 一般のマラソン愛好家がボランティアで運営している非営利サイトに対して、 ドメインの削除を要求したのだ。 公共の電波を使わしてもらっている企業として恥ずべき行為だ。 図々しいにもほどがある。
澤田純
(さわだ・じゅん)

澤田純

【期間】
2018年6月~
2022年6月

技術系



<ドコモ完全子会社化の発表会見> <NTTデータとの海外事業統合>
突出した行動力を発揮したアクティブな社長だった。 とりわけドコモの完全子会社化などグループ再編に大胆に取り組んだ。

■就任時の年齢
62歳

■就任の発表日
2018年5月11日

■就任日
2018年6月

■直前の役職
副社長

■同時に行われた幹部人事
三浦惺会長(前々社長、74歳)は顧問に
鵜浦博夫社長(69)は相談役に
篠原弘道副社長(64)は会長に
NTT東日本社長には、井上福造副社長(62)が昇格
NTT西日本社長には、小林充佳NTT常務(60)が就任

■出身
大阪府

■大学
京都大学工学部

■入社年次
1978年(昭和53年)

■社内キャリア
●電柱の技術者
入社後の配属は電柱などの開発だった。わりと地味な部門だった。主流派の「交換機」の技術者ではなかった。
現場保守も担当した。さまざまな失敗や摩擦に直面してきた。

●エピソード
1985年に29歳で赴任した兵庫県宝塚市の電報電話局時代、上司に激しく叱責された。身障者施設からヘッドホンが使える公衆電話を頼まれ、社内の承認を得ずに改造したためだ。しかし、身障者などの間で好評を博した。他の施設にも広げることになった。

●児島仁社長の秘書室
1990年代、児島仁社長(3代目)の秘書室に配属された。 郵政省(現:総務省)との交渉を担当し、NTT分割反対の論陣を張った。

●国際派
米国勤務から帰国した後、NTTコミュニケーションズで海外M&A(合併・買収)をまとめた。

●役職歴
2008年 NTTコミュニケーションズ取締役。
2014年 NTT副社長

■趣味など
高校で拳法
大学でアメリカンフットボール

■社長退任後のポスト
代表権のある会長に就いた(2022年6月)。NTT社長が代表権のある会長に就くのは、民営化後の2代目社長・山口開生氏以来26年ぶりだった。
それまでNTTでは、社長退任後は相談役か代表権のない会長に就く例が続いていた。実力会長としてグループ再編や世界展開などを担当することになった。

■在任中の主な取り組み・実績
・NTTドコモの完全子会社化
・グループ内の法人向けビジネス再編
・NTTデータとの海外事業統合
・不動産事業の統合
・トヨタ自動車やNECとの資本提携

●ドコモ買収(2020年9月29日発表)
NTTにとってNTTドコモの完全子会社化は長年の課題だった。
1992年にNTTの無線部門が分離され、ドコモが誕生した。当時、NTTが独占的な地位を持っていた通信市場で競争原理を働かせるためには、NTTを複数の会社に分割することが必要だという意見が強かった。このため、ドコモ設立後、旧郵政省(現:総務省)はNTTに対して、「ドコモへの出資比率を下げるように」と求め続けていた。
しかし、21世紀になると、携帯電話市場にソフトバンクなどの強力なライバルが登場し、ドコモのシェアは低下した。NTTの独占に対する警戒心は減った。また、米国などの巨大IT企業と対峙するためには、NTTグループの総力を結集したほうがよい、という意見も出るようになった。
澤田氏はこうした情勢の変化をうまく利用し、完全子会社化を実現させた。4兆円超を投じる巨額投資(買収)だった。

●法人向けビジネス再編(2022年1月)
長距離固定通信「NTTコミュニケーションズ(NTTコム)」と、
システム開発「NTTコムウェア」の2社を、
ドコモの子会社にした。
ドコモは企業向けにスマホの一括販売を行ってきたが、システム構築の提案まではあまりできていなかった。
大企業を顧客に持つコムやコムウェアを抱え込むことで、強力な法人営業力をつけるのが目的だった。

●NTTデータと海外事業を統合(2022年5月発表)
NTTグループで海外事業を担当していた「NTTリミテッド」を、上場システム会社「NTTデータ」の海外事業と統合した。これにより、グループの海外ビジネスは、一義的にはNTTデータの事業として進めることになった。NTTは売上高が11兆円を超えながら、その8割強が国内だった。今後成長するためには、グループ内の海外事業を集約し、強化する必要があった。

●異業種との資本提携
トヨタ自動車やNECとの資本提携を実現させた。いずれも日本を代表する製造業の会社である。異業種との提携により、世界的な技術競争で優位に立つ狙いがあった。

●6G
次世代通信規格「6G」向けの光通信技術の開発に力を入れた。「IOWN(アイオン)」と名付けた。

■不動産事業の統合
不動産事業を統合した。NTT都市開発を完全孫会社化し、上場廃止とした。

■サービスの質は劣化
在任中、サービスの質は劣化した。NTTドコモは以前は窓口でのサポートが手厚く、それがドコモの良さだった。しかし、ドコモショップの人員は急激に減らされ、予約を入れることすら困難になった。予約を入れて窓口対応までこぎつけたとしても、知識の浅いスタッフばかりで、役に立たなくなった。「目先の利益重視」の姿勢が顕著になった。さらも。NTT東日本などもサービスも非常に悪くなった。人員が手薄になり、電話が使えなくなったときのサポートも悪くなった。通信会社としての公共性が度返しされるようになった。
澤田社長の任期の最終年度にNTTは過去最高の利益を記録した。株主は喜んだのかも知れないが、NTTを利用している一般国民にとっては不便で残念な状況になってしまった。
ただし、ドコモや東日本の「利益優先主義」を推進したのは、前任の鵜浦博夫社長らも同様だった。サービス悪化は、澤田氏だけの責任ではないだろう。

■接待問題
2021年3月、総務省幹部への接待が発覚した。国会に招致された。報酬減額の処分を受けた。
鵜浦博夫
(うのうら・ひろお)

鵜浦博夫

【期間】
2012年6月~
2018年6月

事務系



<記者会見>
3代続けて事務系の社長となった。

■就任時の年齢
64歳

■就任の発表日
2012年5月11日

■就任日
2012年6月

■直前の役職
副社長

■同時に行われた幹部人事
・三浦惺社長は会長に
・和田紀夫会長は相談役に
・NTTドコモ社長に加藤薫・ドコモ常務(当時60)が昇格。
・NTT東日本の社長に山村雅之常務(当時59)が昇格。
・NTT西日本の社長に村尾和俊副社長(当時59)が昇格。
・NTTデータの社長に岩本敏男副社長(当時59)が昇格。
・NTTコミュニケーションズの有馬彰社長は続投
・NTTドコモの山田隆持社長(当時64)は取締役相談役に退いた。
・NTT東日本の江部努社長(当時64)は取締役相談役に退いた。
・NTT西日本の大竹伸一社長(当時64)は取締役相談役に退いた。
・NTTデータの山下徹社長(当時64)は取締役相談役に退いた。

■出身
石川県七尾市
※出身地である七尾について「山あり、海あり、仲間あり」と語る。お盆と年末年始の最低年2回は実家に戻った。「私は転勤族だったから、子どもたちは本当の意味のふるさとがない。それに比べると、私には帰るところがあり、自分を育ててくれたところが帰る場所だという思いがある」と語っていた。

■大学
東京大学法学部(1973年卒業)

■入社年次
1973年

■社内キャリア
地方の支店に配属。主に労務・企画畑を歩んだ。
2000年NTT東日本の東京支店副支店長
2002年取締役第一部門長
2005年取締役第5部門長
2007年常務取締役(経営企画部門長、中期経営戦略推進室次長)
2008年代表取締役副社長(新ビジネス推進室長)

■就任前の実績
副社長として海外事業を統括していた。2010年に南アフリカの情報システム会社「ディメンション・データ」買収を指揮した。

■趣味など
休日は野球観戦などで過ごす。NTTグループの社会人野球を応援。プロ野球では西武ライオンズのファン。
ジェフリー・ディーヴァーなど海外の推理小説を好む。
囲碁も。

■実績・取り組み・失敗
●業績
NTT東西の営業利益を4倍にした。これは、過去の社長が取り組んできたリストラの成果でもあろう。

●ドコモの経営
2014年11月にドコモが導入した音声通話のかけ放題を目玉とする料金プランが響き、営業利益が15年ぶりの低水準となった。
業を煮やした鵜浦氏はドコモ社内にコスト削減のチームを作らせ、自分に直接報告させると公言した。
チームのまとめ役に指名したのが当時副社長に昇格したばかりの吉澤和弘氏だった。この吉澤氏が後にドコモ社長になった。

■不祥事
NTTによる総務省への接待問題が発覚した。2021年6月にNTTが発表した調査報告書によると、NTTとの会食29件のうち5件は総務省の政務三役が出席した。鵜浦氏は社長時代の2018年、総務省の谷脇康彦総合通信基盤局長(当時)らと会食し、1人当たり6万480円の費用をすべてNTTが負担した。谷脇は退職した。NTTは澤田純社長(発表当時)ら16人が処分された。

■社長退任後のポスト
取締役相談役
→2021年6月相談役を退き、特別顧問に就任した。

■財界・団体・社外活動
2021年6月、KADOKAWAの社外取締役・監査委員に就任した。
三浦惺
(みうら・さとし)

三浦惺

【期間】
2007年6月~
2012年6月

事務系

1985年の民営化後、事務系と技術系が交互に社長に就任してきたが、事務系社長が2人続き、たすき掛け人事が崩れた。優れた人柄とバランス感覚で、IT企業への転換を推進した。

■就任時の年齢
63歳

■就任の発表日
2007年4月18日(報道日)

■就任日
2007年6月28日

■同時に行われた幹部人事
・和田紀夫社長(当時66歳)は代表権のない会長に
・NTTデータの浜口友一社長(当時62歳)が退任し、山下徹副社長(当時59歳)が昇格

■少年時代
1歳から中学まで広島県尾道市の田舎で育った。当時、集落には公衆電話1台しかなく、東京に電話するのも2、3時間かかったという。広島市の修道高を卒業して東京大学へ進学した。大学時代は山登りサークルのリーダーだった。

■出身
広島県尾道市出身

■大学
東京大学法学部(1967年卒業)

■入社年次
1967年(昭和42年)

■社内キャリア
前任の和田紀夫社長と同じく労務畑を長く歩んだ。早くから社内外で次期社長の「大本命」と目されてきた。
1985年の民営化でも厳しい労使交渉にあたってきた。転勤、配置転換、賃金削減などに取り組んだ。「やるしかないとの信念と誠意を持って、1人1人と話し合えば信頼が生まれる」をモットーにしたという。
1996年取締役人事部長
1998年常務
1999年7月NTT東日本副社長。
2002年NTT東日本社長
2005年6月NTT副社長

■就任前の実績
●大規模な合理化
2001年の大規模な合理化では労働組合との折衝役を務めた。東日本、西日本の社員計14万人のうち、10万人を新設子会社に転籍させる大手術だった。NTT労働組合との交渉で矢面に立ち、難航する交渉をまとめ上げた。OBの企業年金の給付減額をめぐる交渉でも前面に出た。
社内外に「無理と思われた交渉をまとめた力は大きい」と評価が定まった。2002年6月に東日本の社長に昇格した。
それから2005年まで務めたNTT東社長時代は、固定電話の縮小が避けられない中、光ファイバー事業に経営資源を集中させ、将来の成長に向け道筋をつけた。
その後NTT副社長になり、2010年度までに光ファイバーを3000万世帯に敷設する中期経営戦略の実行を進めた。

■実績
2009年(平成21年)3月期の最終利益が日本企業でトップとなった。
2010年に南アフリカのITサービス大手「ディメンション・データ」を約3000億円で買収。子会社も含めて海外でのM&A(合併・買収)を徐々に増やした。ただ、過去の苦い記憶から慎重に投資先を選んでおり、投資規模は小さめだった。

■人柄
内外の信望が厚い。「人望で部下を動かし、仕事を固める」が社内評。和田氏が後任に指名したのも「誰からも信頼されるキャラクター」のため。
40代後半の岡山支社長時代に、数千人の男衆が裸でぶつかり合う勇壮な奇祭「西大寺会陽(えよう)」に100人ほどの部下を引き連れて参加した。2月の極寒の夜、自らも白い締め込み姿で乗り込むお祭り好きの面もある。

■趣味など
ウォーキングが趣味。山歩きのほか、とにかく歩くのが好き。NTT東日本の役員時代の健康法は45分の徒歩出勤。スニーカー風の革靴を愛用し、自宅から新宿の本社まで自宅から約40分歩いて出勤していた。さらに、28階の社長室まで階段を使っていた。休日は足をのばして山に出かけることが多かった。
旅行、散策も趣味。夫婦でオペラ鑑賞も。

■家族
妻康子さん、息子2人。

■社長退任後のポスト
会長
和田紀夫
(わだ・のりお)

和田紀夫

【期間】
2002年6月~
2007年6月

事務系

政府からの「NTT分割」圧力をかわし、巨大なグループ体制を堅持した。

■就任時の年齢
61歳

■就任の発表日
2002年4月16日(報道日)

■就任日
2002年6月

■直前の役職
副社長

■就任の背景
当初は、最有力の社長候補ではなかった。しかし、「プリンス」と言われたNTTコミュニケーションズの鈴木正誠社長が、海外企業(米ベリオ)の買収で大失敗した。もう一人の社長候補だったNTTドコモの立川敬二社長も、海外投資への出資で巨額損失を出した。その結果、両氏の起用は見送られた。
一方で、和田氏はグループ全体の大胆な合理化で手腕を発揮した。幅広い人間力と知性を備えており、労務担当としての経験も豊富なことから、後任に選ばれた。

■同時に行われた幹部人事
NTT東日本は、三浦惺・副社長(当時58歳)が社長に昇格
NTT西日本は、武内道雄・副社長(当時57歳)が社長に昇格。
井上秀一・NTT東日本社長(当時64歳)と浅田和男・NTT西日本社長(当時62歳)は取締役相談役。
鈴木氏と、立川敬二・NTTドコモ社長(当時62歳)は留任。

■出身
山口県

■大学
京都大学経済学部
(1964年卒業)

■入社年次
1964年(昭和39年)

■社内キャリア
●労務畑
旧電電公社時代から、40年近く労務畑を歩んだ。特に30~40代は、労働組合運動の激しい地域を異動し「使」の立場を貫いた。
そんなキャリアの総決算が2001年。地域会社のNTT東日本と西日本の社員計10万人を、賃金の低い新設子会社に移籍させる交渉の責任者になった。
51歳以上の社員を中心に給料を3割減にした。2万人の希望退職者も出た。大手術だった。
若いころに酒を酌み交わし、議論を重ねた相手が主要労組「全電通」の中枢になっていた。「世界で勝負できない会社は生き残れない」と説得し、高コスト体質を改めようと「NTTの構造改革」を訴えた。

●東北に2度勤務
1972年(昭和47年)に電電公社の東北電気通信局職員課長として仙台に赴任した。
さらに1992年6月26日、理事・労働部長から取締役東北支社長に異動し、2度目の仙台勤務となった。このときは単身赴任だった。
常務を経て1999年副社長。

■就任時の抱負の弁
「ありきたりだが、責任の重さをひしひしと感じている。通信全体がインターネット・プロトコル(IP)に急速に移行する中で、経営のかじ取りは、非常に難しい」

■趣味など
読書、ゴルフ、マージャンなど。気分が落ち込むと、勝海舟の「氷川清話」を読んで、気持ちを鼓舞する。
学生時代に弓道に打ち込んだ。
鉄棒にぶら下がるのが日課だった。

■家族
夫人と長男、長女

■実績・取り組み
●IP化
既存の固定電話設備の更改を事実上凍結し、2010年までに電話網のIP化と3000万人を光ファイバー網に収容することを決めた。

●ネット事業の再編
グループ内のネット事業をNTTコミュニケーションズに一元化するなど、再編を進めた。2006年8月には、インターネット・サービスのNTTレゾナントなどの子会社をNTTコミュニケーションズ(NTTコム)の傘下に集約した。

●固定電話ビジネス再編
NTTエムイーなど子会社との間で営業網や回線設備が重複していたことから、グループ内の役割分担を明確にした。

●業績は苦戦
固定電話や携帯電話でも次々とシェアを落とし、苦境が続いていた。2007年3月期決算の営業利益は前期比7.0%減と3期連続で減少した。音声通話や携帯電話の販売不振を光ファイバー事業の拡大などで補えない構図が続いた。

●規制強化と闘う
小泉政権下の竹中大臣らによる規制強化の圧力と闘った。

●ドコモ人事への介入
NTTドコモの社長選びをめぐり、初代社長の大星氏と二代目の立川氏は津田志郎氏を推していた。津田氏は立川氏らと同じ無線屋出身で、独立論者からの待望論も強かった。ドコモ3代目社長としてほぼ内定していた。
しかし、和田氏の主導でこの人事は白紙となった。津田氏に代わってドコモ社長に指名されたのは、和田氏とともにNTT本体で労務畑が長かった中村維夫氏だった。この後、一時代を築いた「iモード一派」は駆逐されていった。iモード部門を率いた榎啓一氏も子会社に追いやられた。
中村社長次代のドコモは世界展開の大チャンスを逃した。グーグルのエリック・シュミット最高経営責任者(CEO)が当時は極秘だったアンドロイドOS(基本ソフト)によるスマートフォン進出を打ち明け、iモードとの提携を持ちかけたのだ。しかし、中村氏が動くことはなかった。
2007年、その後のドコモの低迷を決定づける破壊者が米西海岸で生まれた。「電話を再発明する」。故スティーブ・ジョブズ氏がこう言って生み出した米アップルのiPhoneだった。中村氏が率いるドコモは、iPhoneへの対応で出遅れた。

■社長退任後のポスト
代表権のない会長に就任
日本棋院理事長に就任
宮津純一郎
(みやづ・じゅんいちろう)

宮津純一郎

【期間】
1996年6月~
2002年6月

技術系

技術系のプリンスとして早くから社長就任が有力視されていた。 在任中にインターネットが普及したことを受けて、日本全土で光ファイバー網の整備を加速させた。

■就任時の年齢
60歳

■就任の発表日
1996年5月9日(報道日)
1996年5月24日(取締役会で内定)

■就任日
1996年6月末

■社長就任の背景
NTT社長人事では2年前の改選期にも、郵政省が同省OBの沢田茂生副社長の社長昇格を求め、調整が難航。結局、児島社長が続投した経緯があった。
続投した児島社長は、郵政省主導のNTT分割論議を押し返し、1年先送りさせた。その上で沢田氏を会長に祭り上げ、技術系のエースだった宮津氏を後任に据えることに成功した。

■同時に行われた幹部人事
山口開生会長は相談役に
沢田茂生副社長(元郵政省事務次官)は会長に

■出身
東京都

■大学
東京大学工学部電気工学科(1958年卒業)

■学生時代
学生時代は野球(中学)、ラグビー(高校)、柔道(大学)に打ち込んだスポーツマン。
「父親が病身だったので、学生時代はアルバイトをよくやった」という。
本当はメーカー志望だったが、先生の命令で電電公社に入った。

■入社年次
1958年

■社内キャリア
●技術系の本流
電電公社時代から設備調達を担当する施設局を中心に「技術本流」を歩んできた。常に社内の技術開発の中心にいた。
1985年の民営化後は、経営企画本部経営計画部長などを経て、1987年取締役、1988年常務、1992年代表取締役副社長。
1994年2月にはマルチメディア推進室を作り、初代室長に就任した。

■就任前の実績
NTTにとって財産の通信網をデジタルに切り替えたのは理事、取締役、常務、副社長と延々9年に及ぶ取り組みの成果だった。
1994年は日本でマルチメディア旋風が吹き荒れたが、その旗振り役を務めた1人だった。

■人柄
●就任前の人物評
ざっくばらん。「えっとねー」「だけどさー」「ぼくは技術屋だから…」と切り出すべらんめえ調の語り口は、技術畑出身にみえなかった。
官僚体質の残るNTTでは珍しいタイプ。「着想をいきなり相手にぶつける。大ざっぱなようで、実際は冷静かつ緻密(ちみつ)」というのが社内評だった。
発言は分かりづらいことがあるが、思考回路は理路整然としていた。

■プライベート、趣味など
公社時代は2年ごとに転勤した。家族を引き連れ全国を歩いた。
社長就任時は168センチ、80キロ。酒席が重なり、太めの体を絞るため、休日は夫人と丹沢の山をひたすら歩くようにしていた。
山歩きに加え、最近はマウンテン・バイクに凝る「アウトドア」派。
また歴史や哲学書を読みあさるなど、コチコチの技術屋ではない。

■座右の銘
中国の文豪・蘇東坡(そとうば )の詩句「柳は緑、花は紅」。禅の世界で「あるがままの姿こそ、真理そのものだ」というほどの意味。重大な物事の決断時に、頭をよぎったという。

■家族
妻と一男一女。
父親は東京大学第二工学部の教授だった。 実弟と息子も東大工学部出身の技術一家だ。

■実績・取り組み
●光ファイバー網を整備
在任中にインターネットが普及したことを受けて、日本全土で光ファイバー網の整備を加速させた。

●大規模な合理化に着手
NTT東日本、西日本などの大規模な合理化に着手した。これは、公社時代から抱えていた過剰な人員・組織をスリム化し、インターネット時代に備えるためのだった。このときの合理化は、NTTの将来の収益改善に多大な恩恵をもたらすこととなった。

●海外投資で失敗
2000年にNTTコミュニケーションズが米インターネット接続事業者大手ベリオを約55億ドル(当時で約6000億円)で買収した。
NTTドコモがオランダの携帯電話事業者KPNモバイルに約5000億円を出資。米携帯大手の米AT&Tワイヤレスに約1兆1000億円出資した。
だが直後に米国の「ドットコムバブル」が崩壊した。ベリオ社が2001年9月決算で約5000億円の評価損を出した。ドコモも海外投資で8000億円の特別損失を出した。
この結果、翌2001年度にグループで2兆円以上の特別損失を計上した。

●ADSLで出遅れた
ADSL(非対称デジタル加入者線)で市場の開拓者になれなかった。

■豊富な人材が活躍
宮津体制下では、優秀な人材が活躍した。 細かいことにツッコミを入れるタイプではなかったため、 幹部たちが自らの得意分野で力を発揮した。 例えば、NTT持ち株会社の取締役だった小出寛治氏は、 優れたバランス感覚とビジネスセンスを備えており、 やや技術オタク系だった宮津社長をサポートした。 NTT分割をめぐる総務省や日経新聞からのプレッシャーを上手くかわし、 グループ独立を守った。
宮津氏本人が役人的な気質ではないため、周囲にも役所的ではなない人材が集まった。

また、NTTドコモからは、時代を先取りするデータサービス「iモード」が登場し、大ヒットした。 iモードは様々な異業種企業から幅広くコンテンツを取り込んだのが成功の理由だった。 その結果、社外でベンチャー企業が次々と誕生していった。 落合正美氏が率いた「インデックス」などが有名だ。

宮津氏はドコモに対して、一定の自由を与えていた。 ドコモの大星公二会長が「持ち株会社からの独立論」を唱えても、あえて目をつぶった。 その結果、社内の士気が高まり、 社外から招へいされた松永真理氏や夏野剛氏が斬新なアイデアをを出した。
児島仁
(こじま・まさし)

児島仁

【期間】
1990年6月~
1996年6月

事務系

真藤恒・初代社長の“秘蔵っ子”。

■就任時の年齢
59歳

■就任の発表日
1990年5月10日(内定報道)

■就任日
1990年6月下旬の株主総会後の取締役会

■直前の役職
副社長

■就任の背景
前会長の真藤氏がリクルート事件で退任した後、空席の会長ポストに財界の有力者を招き入れるか、あるいは山口社長がそのまま就任するかが、大きな焦点となっていた。
財界からは当初、磯田一郎・住友銀行会長や松沢卓二・富士銀行相談役らの名前も取りざたされていた。しかし、技術にも精通した適任者が見当たらなかったことで、宙に浮いたまま1990年3月からのNTT分割騒動に突入した。
こうした中で、郵政省(現:総務省)は「会長は空席」と読んだうえ、次期社長含みで沢田氏の副社長就任を強く自民党筋に働きかけた。
しかし、NTTはこの郵政省案に強く反発。特に分割反対の急先ぽうのNTT労組・全電通の山岸章委員長は、水面下で分割推進派の郵政省OBのNTT入りに強く抵抗したという。
だが、結果として山口氏が会長に、山岸氏と親しいとみられている労務担当の長かった児島氏が社長になったのと引き換えに、郵政省OBの沢田氏の副社長としてのNTT入りを認めた。いわば「NTTと郵政省の妥協の産物」だった。
このとき沢田氏は社長含みとされたが、結局、社長にはなれなかった。当然だ。元役人にできるような仕事ではない。

■同時に行われた幹部人事
山口開生社長は会長に就任。
元郵政事務次官の沢田茂生(当時58歳、郵便貯金振興会理事長)が、外部から副社長に就任。
※NTT会長は、真藤恒前会長が1988年(昭和63年)12月、リクルート事件の責任をとって辞任して以来、空席だった。

■出身
北海道深川市

■子供時代
5人兄弟の末っ子。父親を早くに亡くし、苦学した。兄が面倒を見てくれた。
故郷・北海道深川市で雪の中を裸足で学校に通ったような経験が、しんの強さの源泉になったという。

■大学
北海道大学法経学部卒業
(1953年卒業)

■学生時代
学生時代から本の虫。大のラグビー好き。大学時代は、フランカーを務めた。

■入社年次
1953年(昭和28年)
※日本電信電話公社1期生

■社内キャリア
1953年(昭和28年)日本電信電話公社1期生として入社。戦前から続いた逓信省が、郵政省とNTTの前身である日本電電公社に分かれた時だった。
大阪、神戸、岐阜、北海道など、現場を長く回った。
「座って報告を聞くよりも、出向いて指示する方が性にあう」というタイプ。その公社マンらしからぬ行動的な性格が、真藤恒体制下の改革時代に高く評価された。
1983年(昭和58年)2月、理事・職員局長。
総務理事から、1985年(昭和60年)4月の民営化で常務。
1986年(昭和61年)6月から副社長。総務、人事、労働、経理を担当し、技術系の山口社長を補佐した。民営化に向けて組合対策が大きな問題だった時に労務の責任者を長く務めたため、山岸章委員長など全電通幹部との厚い信頼関係を築いた。

■社長就任時の抱負
「社内に混乱を招くことを覚悟で分離・分社化をどんどん進める。一度は、白紙の上に大胆に絵を描くようなことも必要だからね」。

■人柄・人物
●就任前の人物評
豪放磊(らい)落、直線的。机の前に座って部下の報告をゆっくりと待っていられるタイプではない。

■趣味など
読書、ラグビー観戦が趣味。
スキーは60歳を過ぎて本格的にはじめ、北海道津別町の別荘(山小屋)へ行き、ゲレンデに出る日も多い。「筋力さえあればスキーは死ぬまでできる」というのが持論だった。

■家族
妻の圭子さんと2女。

■実績・取り組み
家庭にデジタル回線が引けるISDN(総合デジタル通信網)ターミナルアダプタMN128を1995年12月、子会社から発売した。1年前には接続の工事費などを含めて18万円以上かかっていたが、5万円台で済むようになった。
一契約で従来の電話より速度の速い回線が2つ引けるようになった。電話をかけながらパソコン通信ができるようになった。電話を2回線契約するより月額基本料も安い。専門業者の工事がいらず、自分で配線できるのもメリットだった。

■座右の銘
「怒るべき時に怒れないのは男でない」

■死去
2023年5月31日

・享年
92歳

・死因
肺炎
山口開生
(やまぐち・はるお)

山口開生

【期間】
1988年6月~
1990年6月

技術系

逓信省(日本電信電話公社の前身)入省組。真藤氏の後を継ぎ1988年6月、民営化後2代目の社長に就任した。リクルート事件後の経営体制立て直しにあたった。

■就任時の年齢
62歳

■就任の発表日
1988年5月25日

■就任日
1988年6月29日

■直前の役職
副社長

■同時に行われた幹部人事
真藤恒社長は代表権のある会長に就任。
北原安定副社長は顧問に退いた。

■出身
京都府

■大学
東京大学第二工学部(1948年卒業)

■入社年次
1948年(昭和23年)
※逓信省(郵政省とNTTの前身)入省。

■社内キャリア
最初の15年間は一貫して線路畑を歩んだ。線路とは電話局の外の設備すべてを指す。電柱を建てたり、マンホールにもぐって工事をしたりした。現場のことはよく知っていた。
1977年(昭和52年)年に郵政省から分離した日本電信電話公社(現NTT)の職員となった。
1985年(昭和60年)の民営化に伴ってNTT常務に就任。
1978年(昭和53年)施設局長、技師長
1979年(昭和54年)総務理事
1985年(昭和60年)4月の民営化で常務
1986年(昭和61年)6月副社長。

■抱負
「NTTが海外を含めもっと外の空気を吸収するなど“真藤イズム”を踏襲し民営化の総仕上げに全力投球していきたい」

■喫煙
前任の真藤氏はセブンスターを1日70本吸った。山口氏はマイルドセブンを20本程度吸っていたという。

■人柄・人物
物腰柔らかく、したたか。信条は「和を以て貴しとなす」。つまり、コンセンサスを重視した。
強烈な個性で日本電信電話(NTT)の民営化を引っ張った真藤さんに比べてちょっと見にマイルド。時にNTTと対立する郵政省の首脳は「ブルドッグとシェパードの合いの子みたい」と評した。タフで意外にしぶとい、ということらしい。
そんなしぶとさを発揮したのが、政府調達をめぐる日米摩擦だった。国内のファミリー企業が独占していた電電公社の資材調達問題の責任者として、米政府、議会を駆け回って解決した。

■趣味など
土、日の休みは好きなゴルフを1日だけにして、あとの1日は自宅の庭のバラを丹精する。「いい土壌をつくってやる、虫がつかないよう面倒をみるのがコツ」と語っていた。

■実績・取り組み
民営化したNTTが進むべき道の礎を築いた。1990年には、15年後のNTTの将来像を描いた中期経営方針「21世紀のサービスビジョン」を策定した。「新高度情報通信サービス」として携帯電話や大画面双方向通信といった新サービスの実用化を目指すという未来を感じさせる内容だった。

■社長退任後のポスト
代表権のある会長
その後、相談役を務めた。
2001年に特別顧問に就任。

■財界・団体・社外活動
1992年、宇宙開発委員会の非常勤委員に就任した。

■著書
「NTTにかけた夢」(東洋経済新報社刊)
「21世紀テレコム社会の構図―わが電気通信事業の展望」

■死去
2008年12月30日

・享年
83歳

・死因
肺がん
真藤恒
(しんとう・ひさし)

真藤恒

【期間】
1985年4月~
1988年6月

技術系

IHI(石川島播磨)の経営者だったが、電電公社の改革の推進役として、政府の指名により総裁に就任した。1985年(昭和60年)の民営化と共に、NTT初代社長に就任した。甘い経営体質の改革を実行した。「ドクター合理化」と呼ばれた。

■就任時の年齢
70歳(電電公社総裁)
75歳(NTT初代社長)

■就任日
1981年1月(電電公社総裁)
1985年4月(NTT初代社長)

■直前の役職
IHI相談役

■就任の背景
1981年、日本政府(鈴木善幸内閣)が、行政改革のための諮問機関「第二次臨時行政調査会」を発足させた。
会長には、経団連会長だった土光敏夫氏が就任した。土光氏は、IHI(石川島播磨重工業)や東芝の社長を歴任した名経営者だった。第二次臨時行政調査会は、通称「土光臨調」と呼ばれるようになった。
土光臨調が打ち出した政策の柱の一つが、電電公社の改革だった。そのけん引役として、土光氏は自らの後輩であり、IHIの社長から相談役に退いていた真藤恒氏に白羽の矢を立てた。
土光氏の推薦もあって、政府は1981年1月、電電公社総裁に真藤氏を任命した。電電公社で初となる民間出身の総裁だった。
その後、1982年11月に発足した中曽根康弘内閣は、引き続き土光臨調を重用し、改革路線を進めた。その最大の目玉は、電電公社、国鉄、専売公社の「3公社」の民営化だった。

●熾烈(しれつ)な社長争い
民営化とともに、総裁だった真藤氏はそのまま社長に就任した。
ただ、その前の社長選定人事をめぐっては、NTT内部はもとより、政治家や財界を巻き込んで熾烈(しれつ)な争いが展開された。プロパー職員の北原安定・現副総裁が、社長に名乗りを上げたのだ。
財界出身の真藤氏と、電電公社生え抜きの技術者である北原氏は民営化の過程でことあるごとに対立した。政界の最大の実力者であり、郵政、電電関係に影響力を持っていた田中元首相は北原氏やそのグループに近く、北原氏をNTTの初代社長にすべきと訴えていた。
こうしたなか、1984年9月の記者会見で、北原副総裁は民営化後の市内電話の料金(当時3分10円)について「将来的にも、現行の料金水準を維持できる見通しがついた」と、自らの公約もどきに胸を張った。
真藤氏は一週間後の記者会見で、「他人が何と言おうと、私が言わん限りは本物じゃない。料金決定は総裁の責任です」とばっさり切り捨てた。
さらに同年11月14日、都内のホテルで開かれた建設省(国土交通省)系の第二電電会社「日本高速通信」の設立パーティーで挨拶に立った北原氏は「総裁が病気ですので、私が代わりに参上した」と発言。実際、真藤氏はこの日、かぜで都内の病院に入っていたのだが、出席者たちはこの「病気」という表現に驚いた。
二人の間は何かとソリの合わないことが多かった。とくに、真藤氏が旗振り役を務めた民営化問題については、北原氏は当初あまり乗り気でなかったといわれ、真藤氏が一時、「北原副総裁更迭」に動いたため、自民党郵政族が仲裁に入って内聞におさめたこともあった、という。
田中元首相が入院する前の1985年2月下旬には、「真藤社長」を推す中山素平氏ら財界人が元首相と調整した。しかし、決着はつかなかった。
北原氏を代表権つきの会長に昇格させる案がいったん固まった。これに対し、自民党内の北原支持派は「北原氏の将来の社長就任への道を閉ざすもの」と反発、とくに田中派内には田中元首相が入院中だったことから、「元首相の弱みにつけ込むような人事をやるべきではない」と巻き返す動きも出た。
中曽根首相、金丸幹事長、左藤郵政相、藤波官房長官の4人は、民営化直前の1985年3月15日に収拾策を協議し、ようやく「真藤社長、北原副社長」の線が固まった。

■同時に行われた幹部人事
初代社長のイスを争った北原安定(やすさだ)副総裁は、NTT副社長に横滑り

●その他の役員人事
※()内は前職
▽常務取締役
岩下健(総務理事)
鴨光一郎(総裁室調査役、天下り=前郵政省電波監理局長)
児島仁(総務理事)
寺島角夫(総務理事、天下り=元郵政省電気通信監理官)
前田光治(総務理事)
山口開生(技師長)

▽取締役・常勤
阿部譲(日新製鋼社長)
飯田克己(経理局長)
岩崎昇三(施設局長)
草加英資(営業局長)
斎伯哲(近畿電気通信局長)
城水元次郎(研究開発本部長)
高橋節治(企画室長)
長谷川寿彦(東京電気通信局長)
藤田史郎(建設局長)
本間雅雄(関東電気通信局長)
松尾士郎(データ通信本部長)
村上治(理事)
山本千治(保全局長)

▽取締役相談役・非常勤
日本精工相談役 今里広記
三菱鉱業セメント会長 大槻文平

■出身
福岡県久留米市

■大学
九州帝国大学工学部造船学科
(1934年卒業)

■入社年次
1934年、播磨造船所(現IHI)入社

■経歴
●天才的な造船技術者
博士号をもつ技術者。大学を卒業後、播磨造船に入社。
天才的な造船技術者であり、戦後、広島・呉にある造船所で「その人あり」として活躍。業界で知られるようにあった。

●「造船世界一」に貢献
真藤が手掛け、1961年に完成したタンカー「亜細亜丸」は「船は細長いもの」という固定観念を覆し、船体が太く短かった。
内容積が同じなら球体の壁面積が1番小さいのと同じ理屈だった。ズングリムックリの船体は鋼材を節約できた。重量は約13%軽く、建造コストは約3%安くなった。
真藤が編み出したこの形状は「KEIZAI SENKEI(経済船型)」と名付けられ、世界の造船業界を席巻した。1962年(昭和37年)の世界の造船所進水量ランキングでは、IHIの相生第一工場が世界1位にランクされていた。1963年には、企業別でもIHIが世界トップに躍り出た。
真藤氏は、日本が「造船世界一」になった最大の功労者の一人だった。

●IHI経営者
1972年11月、IHIの社長に就任。1978年に造船不況が深刻化し、千人単位の希望退職と賃金カットを柱とする合理化策を打ち出した。翌1979年に責任を取って社長を辞任した。引き際の潔さへの称賛も相まって、「ドクター合理化」として評価されるようになった。

■人柄・人物
二言目には「プロダクティビティー(生産性)」を口にした。現場を知る者が自分で考え、創意、工夫で仕事のやり方を変え、生産性を上げる。徹底した合理主義だった。
ぶっきらぼうだが明確なメッセージを百万べんでも言い続ける頑固さは誰もまねできなかった。

■趣味など
酒はのまないが、紫煙と野菜作りをこよなく愛した。セブンスターを1日70本吸った。

■実績・取り組み
●役所体質を改革
真藤氏が総裁に就任した当時の電電公社は役所体質がしみついたダメ組織だった。約32万人の人員を抱え、100年を超える独占体制に守られた結果、すっかり「ぬるま湯体質」が染みついていた。役所らしい「前例踏襲」「世の中より組織の都合優先」が貫かれていた。
その体質改善に手腕を発揮した。合理化の大なたをふるうとともに、国家独占企業の非効率を口酸っぱく説いた。「電電語ではなく、日本語を話せ」と職員を叱咤し、意識改革を強く促した。「電気通信をユーザーがもっと利用しやすいものに」との信念で、全国11カ所の電気通信局を回った。 職員たちの目が変わった。

●苦情相談窓口
「オレンジライン」と呼ばれる苦情相談窓口を設置した。

●自由化・開放
長距離通信を中心とした国内通信事業の自由化を進めた。

●調達先の拡大
NECなど「電電ファミリー」の企業に偏っていた取引先を引き続き広げていった。電電ファミリーに集中していた資材調達の開放も軌道に乗せた。

●合理化
民営化時点で31万人余いた社員の削減を急ぎ、官僚体質といわれた旧電電のシステム全体を徹底的に変えた。「この電電という雑巾(ぞうきん)は絞らずとも年間3000億円がポタポタ床に落ちている」として、果敢に合理化に取り組んだ。

●データ通信へ
データ通信などの新規事業にも積極的に進出した。

●自ら「脱独占」へ動く
真藤氏には「通信市場に競争相手を育てることでNTTの官業体質を打破したい」という強い信念があった。その一環として、1984年9月の記者会見で「公社で調査済みだが、使う予定のないマイクロ無線のルートがある」と発言し、空きルートを新規参入組に使ってもらってもかまわない旨を表明した。敵に塩を送るようなこの発言の裏には「競争を促して電電公社の官業体質を打破したい」という強い信念があった。
真藤時代のNTTは、組織としても、新規参入してきた通信会社に対して理解があったという。だが、真藤氏の失脚後、NTTの姿勢は徐々に転換し、「新電電は敵であり、一歩も譲歩しない」という強硬論が前面に出ることになった。
NTT労働組合の全電通委員長として10年近く真藤氏とつき合いがあった山岸章氏は「彼が推し進めた意識改革は『公社の文化大革命』と呼ばれていた」と語った。

■不祥事
●リクルート事件
日本中がバブル景気に沸いていた1980年代後半。リクルート事件が起きた。この事件は、新興企業リクルートが子会社「リクルートコスモス」の未公開株を政治家や官僚らにばらまいた汚職スキャンダルだった。
バブルだった当時、新たな企業の株式が市場に公開されれば、ほぼ確実に値上がりした。そこで、リクルートは、不動産会社のリクルートコスモスの未公開株を、政財界の有力者に譲渡したのだった。
コスモス株を手に入れた有力者の多くは、1986年10月にリクルートコスモスが株式を公開した直後に高値で売り抜け、「濡(ぬ)れ手で粟(あわ)」の利益を得た。リクルート創業者の江副(えぞえ)浩正氏は政財界に人脈を張り巡らさせ、公務員同様に贈収賄罪が適用されるNTTにも食い込んだ。
東京地検特捜部は、「NTT」「労働省」「文部省」「政界」の4ルートで捜査を行った。このうちNTTルートでは、真藤氏がリクルートの情報通信事業に対する全面支援などへの謝礼として利益供与を受けたとして起訴された。1990年10月、真藤氏は東京地裁で有罪判決を受けた。懲役2年(執行猶予3年)、追徴金2270万円だった。控訴はしなかった。

■ニックネーム
ドクター合理化

■社長退任後のポスト
会長
※社長退任(会長就任)時のコメント「電電公社総裁、そしてNTT社長として7年半の長い間、社員には無理なこともお願いしたが、思ったより早く意識改革もでき、まあ85点の及第点を出してもいい」と語った。

■晩年
造船時代にリベット打ちでやられた耳が、晩年になると一段と遠くなり、筆談を交えて話すようになった。
米寿の会で「生きている実感を感じるのは」と問われ、「孫、子に自ら近づき穏やかな会話ができるとき」と書いたという。

■死去
2003年1月26日

・享年
92歳

・死因
肺炎
(参考:スナップアップ投資顧問 評判